たまにはちゃんと授業を受けてみるもんだ

僕はインタビューという形式が好きだ。知的な二人が何かを導き合おうとする。結論めいたものを見ることはあまりないけど、過程の、その対話の姿勢に尊敬を覚える。その姿勢はたまに他のところでも見られる。たとえばレポートを提出するときのなんでもなさすぎる一瞬でも、ためしに見てみると、バカな学生とはどうしても話をしたくないという視線を放つ人がいれば、そんな時でさえ向かい合う視線を持つ人もいる。学生がバカなのは本当すぎるからどうしようもないことだが。

そんな視線を、目線を本に向ける人もいる。

これは教科書を買わせる理由のほんの一部にあるんじゃないのかとまで思う。全く無駄とも言える、教科書の内容と授業の内容の乖離した、難しすぎる院生でもやらないような教科書を買わせて、授業で教科書を全く使わないでいるのは。ぼろぼろに擦り切れて、表紙も色褪せてしまった教科書を授業が始まるたびに愛おしそうに開いて、それでいて教科書の内容を薄めすぎたレジュメを配って授業をするのを見ると、この本はあの人にとってどんな思いのものなのか知りたいと思う。今が第三版で初版が何十年も前のものだからあの人が院生のときに自分を高めたものであったり、取り組んでも届かず、どうにか月日とともに深まっていったものなのか。全部全くの妄想だけど、そんな思いの深い本だから無駄でも指定できるのか?少し素敵なことだけど大いに迷惑。


でも自分にはあんなに愛おしそうに思えるような本を手にすることができる日が来るんだろうか。尊敬できる付き合い方をすることができるのだろうか。